進化のイデア 序章
フォーティーンは現代に至るゴルフクラブの進化の礎を作り上げてきたメーカーである。その道を導いてきたのは創始者・竹林隆光。職人の勘に頼っていたクラブ作りに力学を導入し、既存と一線を画したアイデアを形にして、ゴルフクラブを進化させてきたのだ。
記事提供=ゴルフクラシック
芽生えた
不審の心
なぜ止まっているボールをうまく打てないのか。
プレーを始めたころ、多くのゴルファーが味わう思いを竹林隆光もまた感じた。高校まで野球に打ち込み、大学入学と同時に好きで選んだゴルフ部。もちろん竹林も練習に余念はなかった。だが一方で、「道具の影響力のなんと強い競技だろう」という思いを即座に抱くようになった。
今でこそクラブの種類はじつに豊富だが、竹林がゴルフを始めた60年代後半はパーシモンウッドに軟鉄鍛造アイアン全盛。もちろんクラブメーカーも複数ありはしたが、それらに大きな違いはさほどなかった。今あるクラブでうまく打てるようになる、それが当たり前の時代だった。ところが竹林はクラブそのものを疑う心が芽生え、次第に高まっていったのだ。
クラブに生きた
釣りの試行錯誤
竹林には子どもの頃から職人気質(かたぎ)の面があった。
「庭を手入れしてくれる植木職人さんがいたのですが、見よう見まねでやってみる。むこうもおもしろかったのでしょう、いろいろと教えてくれる。雨が降ると仕事にならず、すると釣りに連れていってくれました」。
これまでに歩んだクラブ設計以上に情熱を傾ける、と言ったら竹林は怒るかもしれないが、それほどの釣り名人。小学生の時点で釣りの魅力にハマっていたという。
「最初は浮きを作るのに夢中になって、次は竹竿。釣本を読みあさると、冬に竹を乾燥させるといい竿になるなんて書いてあって、自分で試した。それからヘラブナ。ヘラブナの浮きはクジャクの羽ですが、近所の公園で羽を拾ってきて、2~3枚重ねてあれこれやってみた。もちろんヘラブナは店で売っていますが、私は既製品が嫌だった(笑)」
こうした試行錯誤が後のクラブ作りに生きたか定かでないが、少なくとも、あれこれ試して、作ってみる、という行動は竹林の性分そのものだった。
悩みのスライス病が
クラブで治った
「最初の頃は、例えばアイアンで6番だけ違う。なぜ、セットとしてきちんとなっていないのか」と疑問を持ったという。当時の製造技術の限界もあったのだろう。ピシッとロフト・ライ調整されたクラブなどはなかった。ゴルファーはそれぞれ所属コースのプロに微調整をしてもらい、それでやっと“クラブになる”時代だった。
「次に思ったのは、どうしてメーカーはスライスしないクラブを作らないのか。シャンクも然り。いずれにしても、ゴルファーとしての発想から、その時のクラブに疑問を感じることばかりでした」。
そうこうしているうちに時代は動き始める。ピン、リンクスの台頭だ。
「ピンやリンクスは、クラブは職人が作るものではないと掲げ、当時としては驚くほど性能値の高いクラブを出してきたのです」。
竹林がゴルファーとなり、唐突に感じた違和感は正しかった。腕の差もあるが、クラブの差もある。米メーカーが竹林の疑念を払拭(ふっしょく)してくれたのだ。一方で理論に対する疑問もあった。
「アイアンはヒール側6対4の位置でインパクトする、などと教えられましたが、こっちとしては、えっ、何で5対5じゃないの?って。インパクトがヒール側から入ることを考えての6対4なのでしょうが、フェースの真ん中で打つなら5対5なはず。不思議に思うのも当然でした」。
クラブ業界に進んでも、竹林のこの考え方は変わらなかった。とにかく既存の正しいを疑うことからスタートさせて、理論を構築させていくのだが、それはもう少し先の話だ。
そしてある時、決定打が訪れる。
「とある瞬間からドライバーでスライスしか出なくなってしまったんです。打てども、打てどもスライス。いろいろやりましたが直りませんでした。所属プロにクラブを見てもらい、ちょっとフェースを削って、ソールプレートを外して鉛の位置を変えてみたら、不思議と、あれほど悩まされたスライスがピタッと止まった」。
マジックでも見せられた感覚だったという。
「それからは父親が使っていないクラブを引っ張り出して、ずいぶん壊しましたね。別に壊そうと思っていじっているわけではなかったのですが、あれこれやっていると結果的に壊れていた(笑)」。
クラブ設計家・竹林隆光が、第一歩を踏み出した瞬間だった。