2019/05/14

進化のイデア 第二章

進化のイデア 第二章

フォーティーンは現代に至るゴルフクラブの進化の礎を作り上げてきたメーカーである。その道を導いてきたのは創始者・竹林隆光。職人の勘に頼っていたクラブ作りに力学を導入し、既存と一線を画したアイデアを形にして、ゴルフクラブを進化させてきたのだ。

記事提供=ゴルフクラシック

竹林隆光

たけばやしたかみつ、1949年東京都生まれ(2013年没)。大学からゴルフを始め、卒業後ゴルフメーカーに就職する一方で競技ゴルフを続ける。77年日本オープンではローアマを獲得。81年に独立し、フォーティーン創立。内外メーカーのヒットモデルを設計・開発。00年を迎えるころには自社モデルを幅広く展開。中空アイアン『HI-858』、強烈スピン『MT-28』ウエッジなど大ヒットモデルを世に送り出す。

竹林隆光

たけばやしたかみつ、1949年東京都生まれ(2013年没)。大学からゴルフを始め、卒業後ゴルフメーカーに就職する一方で競技ゴルフを続ける。77年日本オープンではローアマを獲得。81年に独立し、フォーティーン創立。内外メーカーのヒットモデルを設計・開発。00年を迎えるころには自社モデルを幅広く展開。中空アイアン『HI-858』、強烈スピン『MT-28』ウエッジなど大ヒットモデルを世に送り出す。

二章 気付きから確信に変わったクラブ性能の真実「重心」

本質を楽しめる
クラブを作るために



スライス病に竹林が陥ったのは大学1年、秋のことだった。その翌年、大学2年時には早くもゴルフクラブを作る仕事に就こうと決心。その意志は曲がることなく、卒業と同時にクラブメーカーに就職した。

その一方で競技ゴルフはやめなかった。大学ゴルフ部出身でクラブメーカーに就職すると、「プロになれなかったからだろ」と思われがちだが、それは本意ではなかった。竹林には競技ゴルファーとしての意地があったのだ。

「競技ゴルフも嫌いではありませんでしたが、それ以上に自分でチューンナップしたクラブで競技をプレーしてみたかった。クラブによる違いを実戦で感じることに興味が移っていったのです」。

スコアだけを競うのではなく、知らなかった世界にクラブの力で到達できるか。ゴルフというゲームの本質が楽しめるようなクラブを作りたいという思いは、日増しに強くなるばかりだった。

立ちはだかった
数々の壁



念願のクラブメーカーに就職したものの、配属されたのは不本意ながら営業部門だった。会社にしてみれば新卒のサラリーマン、営業への配属は当然のことだったろう。

竹林が就きたかった製作部門、すなわち工員は、ゴルフ経験者などほとんどおらず、手に職をつけるために早くから就職した職人ばかり。大卒サラリーマンなどというものは彼らにとって煙たい存在でしかなかったのかもしれない。

それでも竹林は業務の合間を縫っては工場に足を運び、片隅でクラブをいじる日々が続いた。そして自らが競技ゴルフを重ねるうちに竹林は、ヘッドの重みが及ぼす感覚の違いが大切だと気付き始める。

「ヘッドの重みがどこにあるか、それが自分の中ではすごく重要だったんですが、周りに言っても『ハッ?』という感じで答えがない。ワッグルして、このクラブはヘッドの先寄りが重いな、そんな感覚なんですが、他人に聞くとヘッドの重い軽いはあっても、それ以外の言葉は出てこなかった」。

なぜ? どうして? この疑問を解明するためにクラブに没頭し、また、他者を説得するにも裏付けが欠かせないことを痛感したのだ。

もう少し先の話だが、独立してからのことであるが実際、こんな場面で竹林は苦労することなる。あるメーカーからの依頼でクラブ設計を手がけることになり、現場で打ち合わせをする機会が訪れる。

「お前が竹林か、デザイナーだか何だか知らんが、いいクラブは経験を積んだ職人が作るものだ」。

開口一番。お前みたいな青二才にクラブのことがわかってたまるか、腕に覚えのある職人にしてみればそんな思いだったのだろう。こんなこともあった。別のメーカーへプレゼンテーションしたときのことだった。

「アマチュア用クラブが……」

こう切り出すと、とたんに遮られた。

「プロが使うからこそ、いいクラブ。アマチュアは、そういうクラブをうまく使いこなせるように努力するものだ」

クラブのバリエーションといっても当時は長さとシャフトフレックスのみ。その少し後にシャフト重量のバリエーションが出てきた、そんな時代である。メーカー氏が言うのも無理からぬことだったのかもしれない。が、まずはこうした壁を突き破らなければ事は始まらない。それが竹林の目指した道だった。

感性を数字で
表すために



父親のパーシモンを分解しては壊し、そして就職後は工場片隅で試行錯誤。時に社員販売で安く買えるクラブも研究に費やした。後には、フォーティーン設立前がクラシッククラブブーム以前だったことも幸いした。

「アメリカに行くと、興味深いクラブがウソみたいに安い値段で売っていた時代で、ドラム缶ごと買ってきました」。

あるときには、友人の医師にレントゲン撮影を依頼したこともあった。

「パーシモンのレントゲン写真を撮るとビスの多さにビックリしたのを覚えてます。特にネック回りは接着強度を補うためでしょう、もうビスだらけで、まずこれを何とかしなければ前には進めない。そんなことを考えていました」

ドライバーの重量約375グラム(100匁(もんめ))、これが限界と言われていた時代だ。序章でも触れたがピンやリンクスの台頭が見られたとはいえ、アイアンもまだまだ製造の制約が著しかった時代のこと。道のりは決してやさしいものではなかったが、あきらめることはなかった。

振り返れば、就職したメーカーでその後、“通訳”を経験したことも力になった。

「プロやトップアマ、一般ゴルファーの意見や考えを職人へ伝える橋渡しですね。ただ、ゴルファーから聞こえてくるのは感覚的な話ですから、それをいかに数字に置き換えて伝えるかがポイントでした」。

自身、日本オープンローアマまで上り詰めた技量を持ち、プロからアマチュアまで多くのゴルファーの思いを肌で感じ、そして、感性を形にするために職人へ的確な指示を出す。竹林の考える道は着実に見えてきていた。

さらに、時の流れの中でアシスト風も吹いてくる。一つは、ソニーによるインパクトアナライザーの開発だ。

「それまでインパクトをとらえようとすれば、せいぜい高速度カメラで撮影し、運がよければ(インパクトの瞬間が)写っているという程度でした。インパクトがビジュアル化されたことで、いろいろなものが見えてきました」

他にも東京大学で航空宇宙学を専門とする教授がクラブを科学的に分析した本を著す。あるいは、世界的に有名な銃器メーカーであるブローニングが、銃の弾道を解析する機器でクラブを開発したことも大きなインパクトを与えた。

クラブのスペックを見ると、ロフトやライ、バランスなど横文字が非常に多い。ゴルフ自体が舶来なのだからそれも当然だろう。が、そうした中で異色のものがある。重心高や重心深度、重心距離など、重心にまつわるスペックだ。

重心の高さや深さによって弾道は大きく変化する。それが、竹林が導き出した一つの回答だった。